2017年7月。私は今この原稿を、旅で訪れたポーランドの首都ワルシャワで書いています。
今から25年前、1990年から1993年までのおよそ3年間を、私たち一家は、父親の転勤に伴って移住したこの地で過ごしました。
私にとっては、小学校5年生から中学校1年生までの、それはそれは多感な3年間でした。
▼ワルシャワ旧市街で。2人の弟とベビーシッターさんと。
バザール(青空市場)に並ぶ花や果物がカラフルな春、空の青さと芝生の緑緑しさが目に鮮やかな夏、森や公園の木々や街路樹が一斉に黄葉する黄金の秋、マイナス20度くらいまで冷え込む真っ白な銀世界の冬。
日本とは少し違えど、色とりどりの四季を見せてくれたワルシャワだったはずなのに、なぜか私にはこの街は「灰色」一色に見えていました。
民主化間もない時代です。
どんより曇った空の下、行き交うディーゼル車は黒い排気ガスを噴き出しながら走り、灰色の公営団地がそびえ立つ住宅街では、人々は息をひそめて暮らしているように見えました。当時のそんなワルシャワの景色が、思春期真っ只中の私のちょっと塞いだ気持ちと相まり、そう感じさせたのかもしれません。
当時私が通っていた日本人学校は、全校生徒数20名足らずで、友達といえば限られた数人だけ…という環境でした。外国人の子供が気軽に外出できるような治安情勢ではなかったので、友達の家に遊びに行くときですら両親に車で送り迎えしてもらい、それ以外は家と学校を車で往復するだけの毎日を送っていました。
決して嫌なわけでも辛いわけでもなかったけれど、日本を離れて暮らす心細さや人恋しさともまた一味違う「閉塞感」をひたすら感じながら、なんとなくひっそりと控えめに暮らしていたのでした。
そんな中、突如「あるモノ」により風穴が開けられ、鬱々とした異国での生活に爽やかな風が吹き込んだのです。
それが『進研ゼミ』と『学研の学習』という、毎月日本から届く通信教育の教材と学習雑誌でした。
それからというもの、灰色一色だった私のワルシャワ生活はカラフルに彩られ、閉じていた世界が一気に開いていきました。
これが私と「教材」との初めての出会いでした。
▼つづきはこちら
第1章:浦島太郎にならないために >>
▼最初から読む場合はこちら
私の起業ストーリー >>