ワルシャワにいる頃、私がもう一つはまったもの。それが「文通」でした。
小学校高学年の女子といえば、友達とベッタリ遊びたい盛りです。そんな時期に日本を離れることになってしまったので、その恨めしさを晴らすように、せっせと日本の友達に手紙を書いていました。
そのため、「便箋を入手すること」が重要課題でしたが、残念なことに、ポーランドではかわいいものがなかなか手に入りません。そこで、日本に住むおじいちゃんおばあちゃんへの手紙に「今度、サンリオの便箋セットを送ってください」という図々しくも切実なお願いを書いていた記憶があります。
そうして着々と便箋コレクターとなった私は、リアルな友達との文通だけでは飽き足らなくなり、便箋のさらなる送り先を求めるようになりました。
そんなとき目にしたのが通信講座の「文通メイト募集」のコーナーでした。
すぐさま筆を取り、そこに載っていたある女の子と文通をすることになりました。ワルシャワから遠く離れたシンガポール日本人学校に通う日本人の女の子でした。
メジャーな彼女とマイナーな私
残念ながら今となってはその子の名前も思い出せませんが、私と同学年の彼女は驚くほど字が上手でした。毎回彼女から送られてくる手紙の大人びた字を見ては、「私もこの子みたいに綺麗な字を書きたい!」と思い、張り合うようにして「美しい文字を書く練習」をするようになりました。
しかも彼女は英語も得意で、いつも手紙の最後に、かっこいい英語のフレーズを添えてくれていたのです。
同じ日本人学校でも、彼女が通うシンガポール日本人学校は、2,000人くらいの生徒数を誇る世界一巨大な日本人学校で、かたやこちらは20人程度の弱小日本人学校です。
さらに、日本人学校に通いながらも英語が得意な彼女と、かたや日本では耳にすることすらないポーランド語は、「まったくわかりません」状態の私でした。
別に張り合う必要も何もないのですが、私の頭の中では「メジャーな彼女と、マイナーな私」という構図がすっかりできあがっていて、シンガポールにいる彼女のことをどこかライバル視するようになりました。自分とは違って、大人びていてかっこいい彼女(その姿を見たことはありませんが、私の中では勝手にそんなイメージになっていました。)と、そのメジャーな国でのメジャーな生活に想いを馳せては、「いいなぁ」と羨ましく思っていたことを覚えています。
この文通のおかげで、「自分が伝えたいことを、手紙できちんと伝えたい」、「イケてる彼女を唸らせる洗練された文章を書きたい」、「ポーランドというマイナーな国の素晴らしさを知ってほしい」という気持ちが芽生え、幼き日の私のライター心に火がついたのでした。
ポーランドの郵便事情
そんな文通ライフを楽しむようになった私ですが、「手紙を出して、返事をもらう」という、日本ではごく普通にできることが、そこではできない状況にありました。
というのも、当時、ポーランドの郵便事情は悪く、「切手を貼って、郵便ポストに投函する」という方法では、国際郵便が届くのに1ヶ月以上かかったり、途中で行方知らずになることもザラだったのです。
そのため、こちらから差し出す国際郵便は、父経由で、オーストリアのウィーンに定期的に出張する同僚の方に渡され、その方々の手によって、ウィーンから代理投函してもらう…という方法で発送していました。
一方、日本から来る手紙や教材は、父の勤務先に届けられていたので、何かを送るにしても、受け取るにしても、父を通す必要がありました。
毎月、通信教育の教材が届く時期には、郵便配達の人を待ちわびるかのように、父の帰宅を待っていたことを思い出します。
後年、父が「あれには参ったね」と話してくれたことがありました。
どうやら私は添削課題や友達への手紙のほかに、通信教育の読者プレゼントほしさに「懸賞ハガキ」も忍び込ませていたようです。それを渡された父の同僚の方は、苦笑いしながらも、快くウィーンに持っていってくれていたといいます。(おかげさまで二度ほど当選し、当時は子供が手にすることがなかったフィルムカメラと、当時日本で大人気だったキャラクターのカンペンをいただくことができました!)
そんな郵便事情だったので、「出した手紙が無事に届き、返事が無事に返ってくる」ということは奇跡のようにも感じられたのです。そのため、添削済みの課題や友達からの手紙は、いつでも好きなときに何度でも見返せるように、お気に入りのファイルに綴じられていくのでした。
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